今の我が国の政治・行政の仕組みは、経済成長に伴い行政需要の拡大につれて、権限、税財源などのシンステムの面でも、人材の側面でも、官僚機構が強化され、肥大化し続けてきた。地方や業界への利益誘導の構造も肥大化の一途を辿るとともに、地方は中央依存の傾斜を強め、人材も乏しく、自立するカや意識は衰えて、本来、国民のエネルギーを生み出すべさ源泉のはずの地方自治は文字通り形骸化しているのが実体だ。制度疲労というよりは、至るところに病理現象を露呈して体制疲労を惹き起こし、もはや極限に達している。
本来、立法府(国会)にあるペき調整、政策形成、立法などの権限・機能が官僚機構の支える行政府に集中ている。その一方で国会には立法作業をする専門スタッフさえ皆無に等しい。議員立法は人的にも物理的にも限界である。各政党には、各分野に精通した専門の政策スタッフが充実していなければ、政党政治は機能し得ないのが常識なのに、短めて貧弱だ。したがって、国会も政党も議員も、行政府(官僚機構)に頼らざるを得ない。全力疾走しながら考えぎるを得ない超多忙の国会議員から成る立法府からは、政治としての激動の風雪に耐え得る骨太の発想が生まれて来にくい。地球社会にも大きな責任を負う大国・日本の立法府がこの状態でいいのだろうか。
本来、中央政府・国政の最大の任務は、国の安定と秩序を維持し、危機への対応であるはずだ。公共サービス提供の分野は地方自治体が主体的に責任をもって行うべきものだが、国政の大半が予算の山分けによる国民へのサービス提供いに割かれていることは、世界に大きな責任を負う大国の体制としてはあまりにも不合理で、危険だ。大蔵省主計局を頂点に各省庁を経て、都道府県、市町村へと連なる予告配分の構造は、どう考えても異常である。統治、富国の思想が色濃く残る複合的中央集権体制は巨大化する一方で、三割自治と揶揄され、地方自治とは名のみ、自治の理想とは遠くかけ離れ、真の民主主義とは言えない。この際、三権分立の理想と原則に立ち戻って、国の中枢の権力の構造を改革することと、国と地方の政治・行政のあり方、役割分担を明確にして、日本を徹底してリストラクチヤー(再構築)し、国と地方が共に危機を分担(リスクシェアリング、リスクヘッジ)しあわなければ、迫り来る危機を克服することは不可能だ。官僚の覚醒と決起を促したい。
一昨年夏、細川政権の樹立により、官僚体制に支えられた、自民党一党支配の五五年体制は名実ともに幕を下ろし、歴史の新しい一章が始まった。その後、歴史的な激動期に符節を合わせるかのように、政界は混迷し続けている。政治のリーダーシップは内外にその脆弱ぶりを露呈し、極めて不安定な液状化現象とか、星雲状態とか言われ、なんとも危険な状態だ。
とくに、昨年六月、村山政権の誕生に際して、政党の生命である従来の外交、防衛、安全保障、基本政策などについて、国民の前で一言の議論も説明もなかった。議会制民主主義、政党政治を根底から否定することにはならないだろうか。政治には、国民が燃えるようなロマンを求め、信頼を託せるものがなければならない。
国難迫る、歴史的な末曽有の大転換期の今こそ、新しいフロンティアを拓くべく、政治が本来の使命と責任を自覚して、復権を果たし、政治が決断し、政治の基軸=対立軸を創築し、日本の新しい確かな目標を提示しなければならない、と訴えたい。「座標軸が定まらなければ、函数のグラフは描けない。車軸がなければ車は走れない」と全く同様に、政治の基軸が定まらなければ、政界の再編成はおろか、政治そのものが機能しない。ましてや、国民の政治への意識改革の手がかりもできず、政冶への信頼を取り戻すこともできない。政治の基軸とは、国の体制(政治、行政、経済、社会の構造)と基本政策の選択を国民に求める、具体的でかつ基本的な理念でなければならない。