こうした時代背景からして、旧い《保守》対《革新》の政治の基軸は一刻も早く清算しなければ、地球社会では全く通用せず、日本の政治が狂って、取り返しのつかない失政につりかねない。国民の意識改革をリードすべきマスコミが、未だに保守、革新という言葉を平然と使い続けている。もう、現実の政治に全く合致しない、その用語は止めてほしい。
さて、それに代わる政治の新しい基軸としては、地球社会への貢献と生活者主権の確立の視点と、さらには日本の極度の集権体制の歴史と現状からして《集権体制》対《分権体制》の基軸をしっかりと創案しなければならない。この作業こそ『新生日本』の礎を定める最も基本的で、政治に課せられた最も重要な仕事である。《集権派》=保守・コンサーバティブ(Conservative)対《分権派》=進歩・改革リベラル(Liberal)これ以外に、より適確な新しい政治の基軸が、今日の日本に見つけ出すことができるだろうか。
国の体制(Structure)とはシステムやルールの集大成であり、権力の構造や形態を意味するとの視点からすれば、集権体制は専制・独裁体制の色彩が比較的濃く、全体主義・国家主義の傾向が強いが、分権体制はより自由で民主的でリベラルな体制である。分権の度合いは自由化・民主化の尺度との見方もできる。権力は常に肥大化し、集中化し、長期化する宿命と本能がある。また、絶対的な権力は絶対的に腐敗し、最高権力者は神格化され、時には信仰に近い極端な個人崇拝を招く。抑止機能を実った権力の集中はそこまで行き着いてしまう。ファシズム、ナチズム、コミュニズムを挙げるまでもなく権力の集中とその暴走による悲劇は枚挙にいとまない。政治とは権力闘争であり、本質的には体制を競う闘争であるから、集権体制と分権体制のせめぎ合いとの見方も成り立つ。民主主義の歴史は専制・独裁の集権体制との闘いであり、国家権力を国民本位に分立させる分権体制確立の歴史でもあった。ソ連型社会主義は権力の分立・均衡に配慮せず、極端な集権体制を武器にした、分配論と階級論に政治の基軸を求めたところに破局に至る要因があった、と見るのはどうだろうか。
だから硬直化した官僚体制と特権階級の赤い貴族を生み出し、自己矛盾と弁明の余地ない弊害により崩壊して、拠るべき祖国さえ消滅した。いかなる型にしろ、独裁や極端な集権体制は悲劇と失政につながる。政治が基本的には政策とともに体制を問い続ける営みであるとすれば《集権体制》対《分権体制》の政治の基軸は民主主義の最も理想とする基軸と言えないだろうか。すなわち《集権》対《分権》の政治の基軸は人類が追い求め続けてきた民主主義の原点に立ち還ることである。分権体制の先進国アメリカで過度の分権への疑問の声を聞いたこともあるが、成長期から成熟期に入った日本の政治や行政や経済は言うに及ばず国民生活にとって最も重要な視点だ、と考える。いま、歴史的な転換期に立って、一見平凡のようだが《集権体制》対《分権体制》の基軸にゆるぎない信頼を置き、『究極の基軸』として世に問いたい。
ポスト冷戦の今、もちろん従来からの安全保障をめぐる憲法論争も縮み続けるが、世界貢献と生活大国を標榜する『新生日本』の最も現実的で最も妥当な政治の基軸である、と確信してここに提案する。
指呼の問に迫った新しい世紀への激しい論争とグローバルな歴史の風雪にも耐え抜ける太い基軸たり得る、と考える多様な価値観からの激論にも耐えられると同時に、低迷している地方自治に対しても強いインパクトを与え、転換期のいま混迷している国民の意識改革にとっても明快な指針となり、新鮮で有効な政治の基軸たり得る、と信じている。新しい政見と政界再編成の切り札としての基軸になってほしい、と心から期待を込めている。
歴史の転換期に遭遇して、一つの国家が転身して新しい時代を築くためには、国の体制と主要な政策をめぐる論争の中で、論争の基軸が不明確だったり、欠落していたら説得力ある政策形成などしようがない。明治維新の『新生日本』に向けても、尊皇派対佐幕派、攘夷派対開国派の体制をめぐる深刻な論争、政争の基軸があった。今の「新生ロシア」にも「新生中国」にも保守派対民主派、改革派のはっきりした政治の基軸がある。体制と基本政策は不可分の関係だが、基本的には政治の基軸は憲法論争と不可分の体制論であって政策論ではない。
そうした観点に立つと、存在の基盤を失った冷戦時代の政治の基軸と基本政策にしがみついている限り、臨界点に達した日本の複合集権体制の転換も政界再編成も政治改革もみんな不可能だ、と思う。政党の責任は果てしなく大きく重い。
今こそ国民のだれにでも分かり易い、鮮明な《集権体制》対《分権体制》をこれからの日本の政治の基軸として明確に設定し、《保守・コンサーバティブ派》対《進歩・改革・リベラル派》に政界を再編成して、『新生日本』への論争を展開し、小異を捨てて大同について政治の閉塞状態を打破し、政治の機能を回復させることが、地球社会からも国民からも大国の日本にいま切実に求められているのではないか。
冷戦期の違法論争は第九条論争から脱しされなかった。だが時が流れ、冷戦後の情勢変化に伴って意識改革や心の整理が進むにつれて、冷静な安全保障論議は必ず帰着するところに収斂するものと楽観できる。なぜなら明治以降平成までの激動の歴史の中で示された日本人の現実に対応し、適応する柔軟性は特筆に値すると思うからだが、冷戦期の思考からの脱却が殊のほか急がれる。
そうすれば、社会党内の路線や政策の対立も労組連合の混乱も社民勢力の苦悩も一気にすっきり解消する。レゾンデートルを失った旧来のイデオロギーを捨て去って民主主義の新しい基盤に立脚して新しい基軸により政治を改革し、機能させることだ。二極構造とそれに伴う《保守》対《革新》の超克の一語にに尽きる。長年にわたり国民の信託を受け続けてきたとは言え、長期政権と長年の複合集権体制の弊害や限界を鋭く感じ取って政界再編を模索中の自民党や保守と呼ばれてさた陣営の有識者にとっても願ったり叶ったりの状況が整うのではないか。
すでに既成政党の枠組みも意味はなく、半世紀にも及ぶ《保守》対《革新》の対立も躊躇することなく清算できる。政界再編は一気に具体化し、加速するもの、と考える。そこに初めて緊張感あふれる二大政党制への展望と可能性が国民の前に開けてくる。国民の意思による政権交替の道筋も見えてくる。それこそ地球社会に貢献するための一政治であり、国民=生活者が求めて止まない、豊かさとゆとりのある『新生日本』のためのリベラルな政治が実現すると信じて疑わない。