●都市アナリスト宣言!●

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(4)都市アナリストヘの軌跡

今さら他人様に向けて自らの人生を誇示する必要はありませんし、また特に取り立てて申し述べるほどの足跡でもないことは十分承知していますが、公職を経て都市アナリストを宣言する以上は、ここに至る経緯を明らかにして皆さまのご理解をいただくことが大切と考えました。

1.生い立ち
  〜 大自然の中で野球少年

私は、日支事変の始まった昭和十二年に北関東にそびえる赤城山の西麓にひろがる典型的な中山間地の純農村・赤城村で農家の八人兄弟姉妹の二男として生まれ、育ちました。
村立の三原田小学校から赤城南中学校を経て、群馬県立渋川高等学校を卒業と同時に群馬大学学芸学部(教育学部)に進学しましたが、校風に合わず、三ヶ月で退学しました。
翌昭和三十二年、東京教育大学文学部哲学科と慶慮義塾大学法学部政治学科に合格し、慶大に入学し、昭和三十六年春卒業しました。
昭和三十三年、大学三年生の時、人ロが急増する川崎の市民となりました。その後、赤城村は過疎化が進みました。

少年の頃は、十二人家族で自立心・向上心は強く、記憶力は比較的良かったものの、毎日きびしい農作業に明け暮れする口数の少ない、普通の成績で、遊び好きの平凡な自然児でした。小学校の頃、戦後民主主義の大合唱は鮮明に記憶に残っています。
学生時代は、特筆すべきことはありませんが、大正デモクラシーに傾倒した父親の蔵書の影響もあってか、受験勉強には力が入らず、難解な文学書や評論などを読み漁り、哲学者柳田謙十郎博士の影響を強く受けました。論理性を重視して、正義感が強くなったのはこの頃の柳田博士と読書の影響が大きかったと思います。大宅壮一氏の評論などにも惹かれ、憧れていました。私の新しいふるさとづくりの発想の原点は、少年期を過ごした農村社会への強烈なノスタルジアなのでしょう。
また、巨大メディアが活躍した親友の影響によるとも思われますが、高校生の頃、社会主義、共産主義に強い関心を持ち続けましたが、一線を画して溺れることはありませんでした。日米安保条約の改正騒動では冷静に賛成の主張を行いました。平和、自由、人権などに強いこだわりを抱き、政治活動ではその傾向がはっきりしてきました。

2.ベンチャー企業人のはしり
  〜〜 競い合いのメカニズムにもまれて

昭和三十二年 大学入学と同時にセルフサービス方式の食料品小売店の創業を目指す。
 昭和三十五年 在学四年生の時、父と兄弟で食料品小売店創業
(有)永井商店(現-(株)ナガイ)専務取締役
青果物販売を担当
昭和三十九年  (有)永井楽器開業代表取締役

昭和三十年代の初頭までに、新しい憲法に基づく法制度はほぼ整備され、今日の我が国の法体系の骨格は出来上がり、経済復興も終えて、食糧事情も大幅に改善され、高度成長への扉を開ける時期でありました。京浜地方への人口の集中は凄まじく、どのような業種のビジネスでも必ず成功すると直感していました。今で言うベンチャー企業、ニュービジネスを始めたのです。野菜生産の農業で農作貧乏に泣かされ、過酷な農作業による農産物の相場の不安定に悩まされたものです。そんな経験から、群馬県からの産地直送が創業の原点でした。 
特に、私は青果物の販売を担当し、毎朝の市場でのセリ(競売)で、毎日の価格が激しく乱高下する青物相場で、価格形成や商品価値のチェックなどの市場メカニズムの凄い実態を現場で身をもって知ることができました。セリは極めて素早く、激しい一瞬の競争のため、おっとり間延びした私の性格も市場で鍛えられて、変わらざるを得ませんでした。青果市場で直感力と一瞬の判断力を養うことができたように思い出します。青果物の販売は在庫に対しての売り上げ回転率は、ほぼ営業日数と同じと見倣していいのですが、楽器・レコードの年商は在庫に対して二〜三回の回転ですから、青果物の販売と楽器・レコードの販売は両極端にあり、小売業の難しさやら妙味を肌身で知ることができました。毎日の現金決済と手形決済も知ることができました。同時に、零細企業の悲哀も身に沁みて咬み締める体験もしました。事業を始めては見たものの、私は原理主義的な思考の性格が強く、ビジネスにはあまり向いていないと思うようになりました。そのため政治への志向を強めたように思えます。経済の世界でも一般社会でも競い合うことの合理性を無意識のうちに身につけていたようです。直観力は大切です。「経営・経済は感勘八分」が私の持論なのです。政治や行政の分野も感勘は大事なことと考えています。

3.地域・団体活動を積極的に
  〜〜人の心と社会の力を学ぶ

主な活動歴
・榎戸交柳会(町会)役員
・登戸共栄会(商店会)役員
・多摩区交通安全協会生田支部役員
・多摩区少年野球連盟創立以来役員、会長
・川崎市多摩区公害監視会議委員
・市立東生田小学校PTA役員
・多摩区青果商組合役員
・川崎青年会議所常任理事
・川崎多摩ロータリークラブチャーターメンバー
・多摩区商店街連合会常任理事
など

人口が急増する川崎市の北西部地域にあって、全国各地から移り住んできた様々な人びととめぐり会って、地域活動や奉仕活動から学び得たことは、自治と連帯と参加の意識で結ばれた自立性と主体性に富む健全な近隣地域杜会(コミュニティ)が何よりも大切だ、ということです。県議会本会議で持論を展開しました。新旧住民が共に協働して、どこへ行っても忘れ得ない、どこへ行っても誇り得るふるさと(コミュニティ)が、どなたにとっても、欠かすことのできない心の寄り処(拠り所)であるということです。そこにこそ、市民の幸せな人生があるのだとの強い思いを抱くようになりました。人の心と社会の力を体験的に学ぶことができました。私の今日までの活動を貫いてきた新しいふるさとづくりは、市民主義のまちづくりそのものであります。それは今日の都市アナリストに至る思想形成の原点であったとつくづく思います。青年時代の地域活動・奉仕活動は何にも代え難い人生の座標軸を定めるように思われます。

4.新しいふるさとづくりに燃えて
  〜〜 県議選・市長選で市民主義を掲げる

昭和五十年  神奈川県議会議員選挙に自民党より初出馬-初当選
昭和五十一年 新自由クラブ結成に参加、同神奈川県連経理局長に就く
昭和五十四年 県議選二期目、新自由クラブより当選
 神奈川県公害対策審議会長
昭和五十八年 県議選、三期目、無所属で当選
 県会・行財政制度調査特別委員長
昭和六十二年 川崎市長選挙に無所属で立候補、落選
平成元年  平成元年川崎市長選挙に再立候補、落選

昭和五十年の統一地方選挙で、長洲一二知事誕生で、神奈川県も始めて革新県政となりました。月刊誌中央公論に「指定都市を道府県から独立させよ」が掲載され、各方面から関心を寄せられました。
十七名の新自由クラブの県議は、私を除いてすべて自民党に復党していきましたが、私一人だけは戻りませんでした。今思うと運命的です。いろいろな理由はあったにせよ、今日まで初志を貫くことができました。
川崎市長選挙の連続の敗北は絶体絶命のピンチでありました。四十九才から五十五才の六年三ヶ月間、政治浪人を経験しました。人生盛り、男盛りの年令でした。希望も自信も誇りを失いかけて、悶々とした日々を送るのは楽な話ではありませんでした。捲土重来を期して、雌伏すること六年余の長きに亘ったのですから、今思い返しても耐え難い悪夢でありました。でも「人間万事塞翁馬」なのでしょうか。あの経験を味わえたからこそ、今日都市アナリストヘの道が開けたのかも知れません。都市アナリストとしては得がたい経験でもありました。私にとって市長選挙は人生をかけての戦いでしたが、なぜ、二回も挑んだかです。大都市制度の変革に改革者のような情熱の血が騒いでいたように思い出します。今思うと恥ずかしいほど純粋だったのです。やっぱり自らの中央公論の論文が駆り立てたように思います。平成三年に出版した拙著「市民主義のまちづくり」は今日流行の観を呈している市長選挙のマニフェストと申し上げることができます。文章化することによって一つの構想が理論武装されて強い信念に昇華されるような気がします。これは見えざる手による都市アナリストヘの伏線だったのかも知れません。


5.わがライフワークの地方分権 
  〜〜 中央政界でミスター分権と呼ばれて

平成五年七月  日本新党より衆議院議員選挙で当選、党副代表幹事、郵政政務次官に就任
平成八年十月  新進党より衆議院議員選挙で二期目当選
地方制度調査会委員
小選挙区比例代表並立制に変わり、神奈川第十区(川崎区.幸区.中原区)が選挙区となる
平成九年十二月 新進党解党後、新党・国民の声、民生党を経て
平成十年四月  民主党結党に参加
平成十二年六月 民主党より衆議院議員選挙で三期目当選
民主党 総務会副会長
  民主党 経理局長
  民主党 神奈川県連代表(四期)
  民主党 道州制実現推進本部・主査
衆議院・国会等の移転に関する特別委員会委員長 など歴任
平成十五年十月 衆議院の解散を機に政界を引退

昭和五十年に政治の世界に入ってから今年で三十年。その間、私は激しい政党遍歴を経てきました。先ず、自民党から新自由クラブに変わり、その後、平成五年に、日本新党で衆議院議員に当選するまで党籍を持たず無所属で通しました。
日本新党から新進党、新党・国民の声、民生党を経てようやく、民主党に辿り着いたとのが実感です。初志を貫徹したことで、無定見・無節操に好き好んで政党を変えたのではありません。それは結党に参加した新党が次々に消滅していったのです。自民党一党による長期政権では、政治や行政が歪み、不公平、不公正が増幅し、不正や腐敗が横行して、政治が停滞し国の活力が奪われてしまうことを極力避けるべきと考えたからに外なりません。有力な自民党の政治家から強い誘いをいただきましたが、迷うことなく私は自民党への復党は考えなかったのです。今、三十年に及ぶ政治活動を引退してみて、初志を貫き通せたことを誇りに思うとともに幸せを強く感じています。自民党から新党に参加しながら、多数の同志が別れて行きました。惜しまれてなりませんでした。
文字通り激動激変を繰り返した十年余り、中央政界にあって、連立政権与党も野党も経験しましたが、最も強く感じたことは、日本という国のかたち(統治の構造)は国と地方のバランスが極端に欠けて、国としては極めて不合理でグロテスクなかたちになっているということです。私にはそのように思えて仕方がありませんでした。今、徹底した地方分権で地方主権の確立が切実に求められているのです。先に指摘したように、今進んでいる複合変化に対応して、活力ある日本に再生していくためには、「自立と分権」「自治と連帯と参加」が救国のキーワードと確信しています。
今となってみれば都市アナリストを宣言するのには絶好のポストを経験しました。ご承知の通りバブル経済により東京一極集中が極限に達し、首都移転が真剣に議論され、そのための国会決議、法律の制定、調査会の設置、衆・参に国会等の移転に関する特別委員会、審議会等が次々に設置されて十年間作業が続けられ、いよいよ国会等の移転先をどこに決定するか、最終段階で、私はその特別委員長に就任し、最終調整に腐心してはみたものの、移転先を決めることができませんでした。国家的・歴史的なプロジェクトの意思決定にあたり、代表制民主主義の弱点が露見した思いです。議員や所属政党の思惑に加えて、支援態勢などの選挙区事情など、複雑怪奇な要素により国政が漂流するか如き印象でした。
でも、私は特別委の委員長として、先頭に立って、「栃木県那須・福島県阿武隈」「岐阜県東濃、愛知県西三河北部」さらに「三重畿央」の全候補地の現地調査を精力的に行いました。重要な職責を負いながら日本列島とその美しさを実体験することができました。素晴らしい立地条件と景観に恵まれた候補地は、それぞれの地元の知事を初め、各界を代表する有力者達が懸命に優位性を訴えておられました。景観と共に真剣な顔々が今も浮かんでまいります。遅々として結論を出し切れない国会、意思決定のできない立法府に対して、候補地の側から糾弾する激しい悲痛の声が寄せられました。
 申し上げるまでもなく、首都問題・東京問題は、日本の都市問題が凝縮された象徴的な課題です。今になって顧みれば、結果的には国会などの移転に関する特別委員長のポストは、都市アナリストにとっては、最適なポストとなったように思われてなりません。
 統治構造の視点から都市問題や都市活性化策を考える場合、それは行政のマターというよりは、優れて高度の政治のマターであります。神奈川県という巨大自治体の議員を勤めた後、指定都市の市長選を戦って敗れ、失意と逆境の時を経て衆議院議員として十年余り中央政界で仕事をして、議会の様子、議員の思考や行動様式、政治家の実態などを知る上で、政治の領域で活動した経験は、これからの都市アナリストにとって貴重な財産になると考えております。即ち、今までの地方制度や都市問題は、どちらかと言えば行政や学会の側からの発想・提案が殆どであったと思います。私は政治の側に軸足を定めて、新しい視点から提案をしてみたいと考えております。

6. 訪ね歩いた美しき日本列島
  〜〜 限界に達した地方制度

 学校を卒えて社会人となるや、私はいろいろな地域や団体の活動に携わり、いろいろなかたちで全国各地へ観光やら視察研修やらの旅に出かけたものです。とりわけ、高度成長期には観光バスによる団体旅行が花ざかりでした。夢や希望に満ちた元気な日本でした。
 その後三十才代の半ばからは神奈川県議の公職にあって行動範囲も拡がり、内外の調査や視察の機会が飛躍的に増えてきました。北は北海道から南は九州沖縄まで、それも利尻島、礼文島、奥尻島から佐渡島、八丈島、淡島、壱岐、対馬、さらに五島列島、石垣島に至るまで四十六の都道府県を訪ね、日本全国かなり隅々まで足を運び、日本と日本列島を現地感覚で体験することができました。南北千六百キロに及ぶ細長い日本の国土は四季折々に実に美しい。あと一県山形県だけ訪ねることができませんでしたが、素晴らしい山形はこれからの楽しみにしたいと思っています。
 高温多湿の気候は、美しい景観と共に農耕社会の日本人の聡明で温和な国民性を育んだのでしょう。特に江戸幕藩体制の中で、それぞれの地域は自治が大幅に認められ、極めて個性的でローカル色豊かな地域社会が形成されていたと言われています。明治新政府以降の強力な中央集権体制の統治により、個性的な地域色は薄くはなったものの、江戸三百年の統治は、その面影は今日までしっかり残っていると思います。戦後の均衡の取れた格差のない国土の形成を御旗とした全国総合開発計画で国の行政による統一した補助基準による地方へ補助金行政で決定的に没個性の画一化が進み、どの地方を訪ねてみても、白いガードレールばかりが目に付く光景には複雑な思いを経験したことが多々あります。数々の公共施設もしかりです。最近の報道によると全国総合開発計画は廃止になるということです。このことは一つの時代が終わり告げて新しい時代の到来を物語るようです。もはや、明治憲法発布前後にスタートした現行の都道府県、市町村制は限界に達し、日本の近代化の中で立派にその役割を果たして、歴史的な役割は完全に終えたのであります。地方の自主・自立を抑えて、国家主導の体制で依存体質を助長するこの極度な統治構造と社会システムは成熟社会では通用しません。この成熟社会にあって、核家族化に伴って家庭の教育機能、福祉機能の低下と人口減少の衝撃とともに、少子高齢化時代でNGO、NPO、ボランティア、コミュニティの重要性が叫ばれている今日こそ決定的な障害のある統治の構造を一刻も早く解体して、日本再生に向けて「自立と分権」「自治と連帯と参加」の分権社会に転換しなければなりません。依存と従属から脱却して個性的で味わいや潤いのある地域社会の創造で時代をリードするとともに、世界に誇れる活力に満ちた日本を再構築しなければなりません。日本人の持つ知恵とエネルギーを、時代に即して活用することは次世代への責任です。

7. 都市アナリストへのプロローグ
  〜〜 折々に書き留めた著書や論稿

 私は固より筆まめでもなく、文筆に長けているとは思ってもいませんでしたが、三十年間の政治活動の中で、政治家としての理想や信念を折々に記録し、タイミングを見て提案することは極めて大切なことだと常々考えておりました。一つの論文や演説が人生を変える力があるといつも考えておりました。引退して、この都市アナリストを宣言するに至ってみて、書き留めることの重要性を今更ながら痛感しています。もし、あの若かりし県議時代に中央公論誌上に大都市制度改革の提案をしていなかったら、「市民主義のまちづくり」の著書を出版していなかったら、今日の都市アナリストへの道は拓けなかったと思います。発表順序は不同になりますが、それらのうち主なものを列挙してみますと、

・ 指定都市を府県から独立させよ(中央公論)
・ コミュニティ形成の重要性について(県議会議事録)
・ 知事と市長の多選禁止の制度化について(県議会議事録)
・ 究極の基軸を問う(月刊誌「正論」)
・ 究極の地方分権を問う(月刊誌「正論」)
・ 日本再構築(そのT)(日本図書館協会「選定図書」)
・ 市民主義のまちづくり(中央公論事業出版)
・ 分権主義のくにづくり(丸の内出版)
・ 「新世紀体制宣言」(日本再構築そのV)冊子
・ 私の電車主義宣言(プレジデント社)
・ 「道州制」地域主権・連邦型国家を目ざして(冊子)

議員活動の超多忙の中で執筆しましたので、今になってみれば稚拙な部分もありますが、その熱意だけはご理解いただけるものと思っています。
 この度は、これらの自分の著作に導かれる形で、天の誘いにより都市アナリストを宣言できたように思われ、皆さんと天に向かって感謝したい気持ちで一杯です。

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